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COLUMN

あれは確か小学5年生の時だった。
ホームルームの授業が始まり担任が何かを話そうとしていたが、僕等は各々の会話に夢中だった。すると先生はおもむろにギターを弾き、歌い始めた。僕等がその音に引き込まれるまでにはそう時間はかからなかった。親しみ(だけ?)をもって接していた担任に対して皆が尊敬の意をちらつかせた、そんな一瞬だった。あの衝撃の光景は今でも鮮明に憶えている。特に隣に座っていた女の子の瞳が心なしか潤んでいた。幼心にして音に秘められた力にひどく感銘を受けた。兄貴がギターを弾いていたのもありそれがきっかけでフォークギターを始めた。コードを押さえて、いわゆる弾き語りを楽しんでいた。中学入学式。ブラスバンドの音に圧倒され入部。フルートを吹くようになる。始めた頃はよく倒れた。酸欠で。

当時女子の平均肺活量が1300ccなのに対して1000ccだったことを記憶している。(中学3年生の時には肺活量が4000ccになっていたことも驚きを持って記憶している。ちなみに今は6000ccくらい。継続は力なり。もう倒れる心配はない。)

 高校時代も三年間フルートに没頭した。とりわけバッハのフルートソナタをよく吹いていた。小学校のよいこのあゆみの集団行動の欄がABCの三段階でCだったことを思い出し(それが直接の原因ではないが)、大勢で演奏するものよりもソロや4、5人編成の楽曲に興味の対象が移った。また丁度その頃アドリブというものの存在を知った。今までは楽譜に書かれている音を自分なりに表現してきたから、これまたかなり強い衝撃を受けた。おたまじゃくしがないんだよ。コードがかいてあるだけで。頭の中が ?、・・・ ?。 

 大学入学後即Jazz研に入部。アルトサックスに転向。楽器が変わったことにはあまり抵抗感はなかった。運指も似てるし。

 Jazzを通して初めて音を言葉として捉えていく面白さを知った。当たり前のことだが、普段僕等は日本語を話し日本語で思考する。生まれてから30年以上ほぼ休むことなくそれを続けてきたし、たぶん今後死ぬまで続くはずだ。全ての行動が言語(日本語)に支配されていると言っても過言ではない。Jazzは英語を話すのによく似ている。abcがそれぞれあいうえお かきく… なりドレミに相当するとしよう。するとそれらを組み合わせて意味を持つ単語になり、連ねて文になる。英語は単語を一字々々はっきりと発音する日本語(標準語)とは違い、単語そのものにアクセントがあったり、それらを連ねたときにのまれる音が生じたりし抑揚に富んでいる。 なので仮に日本語調で演奏すると飾り気がなく無骨な感じになり、ある意味クールに。英語調で演奏すると音が飛んだり跳ねたり賑やかになる。(楽器の音色にも依るが。)ような気がする。あとはその人の性格。と言っても結局は思考が性格を形成しているところも大きい。どの様な言葉をどんなタイミングで使うのか。会話中たまにしか口を開かないが、非常に間が良く端的に鋭い言葉を発する人もいれば、絶えず喋りっぱなしの人もいる。当然普通に話す人もいる。どれが良いか悪いかではない。性格であり相性でもある。会話中における自分の役割や立場の様なもので、相手が変われば話す内容も変わる。意見を提示したり、してもらったり、相づちを打ったり、首を横に振ったり、怒ったり、笑ったり、無視したり(ちょっと寂しいなぁ~)、様々な対応がある。音を創っている場合、これらの対応はタイミングすなわちリズムに直接に関係する。

 そんなことを考えながら音に対して自分の話し方や口調の様なものを見い出せたらと思う。話されている言葉は書かれている言葉より生きている。
そしてその形は日々変わる。

この場を借りてなんとなく考えをまとめてみました。


ありがとうございます。
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